東大卒無職による生存方法さがし

新卒で入社した会社を二か月で鬱になって休職した東大卒が日々生存方法を探すブログ。

友情の嫌な面

今日は全体的に捗らなかった。願書を書いたり受験料を振り込みしたり、しょうもない数学の内容でつまずいたり、なんやかんやで思うように勉強を進めることができなかった。ただ、フーリエ解析について学んでいく中で、関数とベクトルが結構同一視できるということを知り、はっとする思いだった。

 

さて、今日は友情について書きたい。友情という言葉は言うまでもなく響きのいい言葉である。しかし、(特に男の)友情は過度に理想化されてみんなに受け取られているのではないか、と思う。

ある意味で、友情とはなれ合いであろう。なぜなら、友情は、どちらかだけが成功することによって崩壊するか、あるいは冷却されるからである。だいたい似た者同士でしか友情というものは成立しないのであるが、一方の成功によって立場に変化が生じると、友情というものはぐらつくものなのである。

少なくとも私はそういうところがあった。同じコンプレックスや問題を抱えている相手にしか、心の底から仲間意識を感じることができない。したがって、特に問題意識を持っていない、悩みがあまりない時は友達がいなくなりがちである。

私が何かに成功した時、祝福してくれた男というのはほとんど記憶にない。口では喜んだようなことを言っていても、正直快く思っていないのが透けて見える。それに対し、女性は他人の幸福を喜ぶ能力に(平均的にみて、男よりは)長けているようだ。逆に、何か失敗した時には、元気づけるようなことをぬかしつつ、私の不幸に甘い蜜の味を感じているのが男というものなのだ。

というか、実際私も、例えば男友達が仕事ですごい結果を残したとか聞いても全く面白くない気がする。反面、すごいエリートまっしぐらだった奴がニートになってたりしたら、「何で!?その話聞かせて??」みたいにめちゃくちゃ食いつくと思う。

社交術として、弱みを共有するというテクニックがあることからも、やはり人間にとっては友達というのは傷のなめあいの相手という要素を結構含んでいると思わざるをえない。めっちゃ頭良くて、見た目良くて、育ちよくて、運動できて、性格いい同性がいたとして、皆心の奥ではこういうやつと友達になりたくないのではないか。

こうしてみてみると、今日の文章はひねくれすぎててやばいな。

 

もう、人間と交流するのをやめて犬でも飼って、犬とのみ会話すればいいのではないか、そう思うことがある。幸い私は丸一日人間と会話しなくても、余裕で幸福感を感じられるので、いけそうな気もする。自分の中に世捨て人的要素を結構感じるのである。

 

受験生の時に読んだ古文の文章で、やたらとみんなすぐ出家してた理由が大人になってよくわかってきたが、もうさすがにこの話はいいだろう。