東大卒無職による生存方法さがし

新卒で入社した会社を二か月で鬱になって休職した東大卒が日々生存方法を探すブログ。

触れ合い

今日もこれといって勉強はしていない。役所関係の手続きをやったほかは、ずっと彼女と会っていた。他愛もないことを話した。ここ数日、将来についての私の考えがぶれまくっているのを指摘される。それはもちろん自覚している。ただ、ぶれまくっているのを笑いあえるのが、なんというか幸せに感じた。ほかには、住宅街を散歩したり、公園であてもないことを話したり。

正直、楽しかった。これからの人生が、そういう他愛もないことの連続であればいいのに、とも思った。世間(世間といっても、あるいはそれは自分のなかに存在する観念に過ぎない)が納得するような生き方を、という強迫的な思いを全部吐き出して、ただ周りの景色の素朴な美しさを、周りの人々のありふれた温かさを感じて生きる。それでいいのではないか。

 

そして、それを実現するための最もはっきりとしたルートは、実家に帰って家業を継ぐ、といった形しか現状見当たらない。しかしそれには、親をはじめ彼女の理解も今一つ得られていない。なんだかんだ周囲も私が東大を出た、ということで「あるべき東大卒の姿」のようなものを私の背後に見てしまうのであろうか。

思うに、教育の成果とは、ある一定以上を超えると、ごく少数の人たち、あるいは本人のみにしか感じることができないような形で現れるのではないか。それはつまり、おおざっぱに言えば、感性の変化ということである。必ずしも進化ではない。ただ変化するだけだ。感性の変化により、時には被教育者が独自のアイデアをひらめいたり、人生を明るくするような歓びを見出すようになることもあるだろう。しかし、その逆もある。というかその逆の場合が多い。頭を使えば使うほど、考え方は周囲と乖離し、他人には理解できない苦しみを抱えることになる。あるいは、他人には戯言としか思えないような思想をもつこともあるだろう。自殺したり、やばい宗教にはまってしまう高学歴がたくさんいるだろう。私は彼らに同情するわけではないが、彼らのノリがわかる気がするのである。私は彼らを(というかこの世のほぼすべてを)「間違っている」とは思わない。ただ周囲と感性が違いすぎて、多数派から見れば狂人に映るというそれだけの話であろう。

 

なんかとりとめのないことを書いてしまったが、やはり勉強しすぎるとむしろ不幸が近づいてくるかもよ、というそれだけの話である。(うろ覚えだが、パスカル(多分)の父親は、息子の数学のセンスを見抜くと、むしろ数学を子供から遠ざけたそうである。パスカルが数学の面白さを知り、それにのめりこむことを危惧したのだとか)