東大卒無職が働かずに生きるブログ

東大卒が感じた社会の厳しさを綴るブログです。開発したサービス(フリマルっていいます)の話もちょくちょく

これからどう生きるか、という話

社会から逃げ、大学院に入ってみたものの楽しいことばかりではない。

 

いやもっとはっきり言うと辛いことの方がずっと多い。

 

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IT関連のバイトで研究の真似事みたいなことをしていたときは、毎日に充実感があった。

 

フリーターという身分。

 

もちろん色々なことに不安はあったが、目の前のことをただこなしているうちにあっという間に半年と少しが過ぎてしまった形だ。

 

きっと自分は研究が好きなのだと思った。

 

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しかし、大学院にいる今、自分は苦痛まみれの生活を送っている。

 

課題と発表の準備の為に、「研究」をする時間はむしろ大幅に減ったといっていい。

 

さらに、大学という機関で行われている「研究」では、新規性やら厳密性やらが重視され、正直息苦しいものに感じられる。

 

まだ、講義で今まで知らなかった概念に触れたとき、若干の喜びを感じられることは救いだが。

 

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私の指導教官は、厳しいことで少し有名な人である。

 

万事がいい加減な性格の私は、この先生との間でも、少し(いやかなりか)辛さを感じていた。

 

幸いにも、話していくうち、本当はめっちゃいい先生だという結論に達することができ、だいぶ気が楽になったのがついさっきのこと。

 

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しかし、正直に言って、このまま大学に残って研究者を目指すことだけはしたくはないという強い気持ちが芽生え始めている。

 

先生はすごくいい先生だし、指摘は厳しく(そして細かく)とも、本質をついている。

 

ただ、結局のところ、自分は普通の人より少しものを考えるのが好きなだけで、それを突き詰めるだけの圧倒的な情熱も才能もないのだと思う。

 

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あれも嫌、これも嫌、ではどうしようもないと自分自身に毎日指摘されている。

 

私は社会不適合者ではある。

 

それは認めよう。

 

ギリギリ死にたくはない。

 

これからどう生きたいか。

 

 

端的にいうと、

 

「ただ幸せに暮らしたい」

 

という、それだけしか今は言えない。

 

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自分でも意外だったけれど、振り返ってみれば、私にとっての幸せというのは、

 

「一緒にいて楽しい人と毎日過ごしているか」

 

でだいたい決まっている。

 

「何をやるか」よりも「誰とやるか」。

 

自分がそんな風に感じるようにできているとはあまり考えてこなかったせいで、これまでの人生、無意味に孤独になったことも何度もある。

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とにかく、「一緒にいたい人たちと一緒にいる」ことさえできるならば、仕事・稼ぎには妥協してもいい気がする。

 

幸い私には金のかかる趣味はないし(投資が失敗しなければ)、金融リテラシーもそこそこある方だから、そもそも大金を必要としていないともいえる。

 

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残された時間で「幸せ」に生きられる場所を探すことにした。

 

それはどっかの中小企業かもしれないし、第七サティアンかもしれないし、もしかしたら今いる研究室かもしれない。

 

これは都会の中に村落を探すような試みだろうか?

 

 

バイトの仲間とのことをよく思い出す。

 

社長のパワハラは酷かったが、皆でよく耐えたこと。

開発はいつも困難すぎたけど、協力して乗り越えたり乗り越えられなかったりしたこと。

などなど。

 

 

平日はああいう仲間とプログラミングでもして働いて、休日は犬と公園を散歩する。

 

そんな生活を送る方法を模索したい。

 

こないだたぶん初めて同級生が結婚した。

私も正直モラトリアムという年でももうないのかもしれないけど、その「幸せ」になんとしてもたどり着きたい。

 

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幸いにも、

今の私にも「一緒にいて楽しい人」が数名いる。

 

まずはこの人たちに感謝したい。

 

そして、今これを読んでいる人。

あなたも色々人生模索中だとしたら、まじでお互いうまくいくといいね、って話だ。

 

我々は間違いなく仲間である。

 

 

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幸運を祈る。