東大卒無職が働かずに生きるブログ

東大卒が感じた社会の厳しさを綴るブログです。開発したサービス(フリマルっていいます)の話もちょくちょく

久しぶりに(?)少し暗い記事を書くことになる。
ちなみにさっきまでバイト先の飲み会があって、明日はまた別のバイト先に行く予定だ。

 

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確か約1年前もこのバイト先の飲み会があった。その時は、単に知らない人たちとの飲み会が居心地が悪いと嘆いていたように思う。

 

しかし、今感じる辛(ツラ)はむしろ、その時はいた人が今はもう居ないもの悲しさとか、これからいなくなる友達とか、プライベートの人間関係があまり上手くいっているとは言い難いこととか、最近株でガッツリ金を失っていることとか、明日新しく始めたインターンに行くのが億劫だとか、大学院関係のことでミスをしたこととか、そういう色々な小さな辛(ツラ)が積み重なって複合的にできたものだ。

 

この状況に対する私の自然な気持ちは「休みたい」であり、それに対する現実からの応答は「休めない」である。

 

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色んな社会的な繋がりを切ってしまいたいと思うことが良くある。妄想の中の私はいわば旅行者のような立場で、何の力も持たない代わりに何の義務も負わない。

かつて大学の授業で公営住宅に住む独居老人たちにインタビューを行ったことがある。その人たちは決して経済的に裕福ではなく、またかなり孤独な生活を送っているように見えた。しかし、そのほとんどは、自分は今幸せだと語っていた。

社会とのつながりとは、例えるならば鋳型のような物であろうか。我々は不自由にもその鋳型に嵌められることで、自分の本来の形を失うが、代わりにある種の安定を得る。


私は公営住宅の独居老人たちを見たとき、ドロッとした・液状の・形のない姿に戻っても意外と幸せなんじゃないかと思った。別に社会において何の地位を持たずとも、自分が影響を受ける・与える相手がおらずとも、人はただ一匹の生物としてそれなりに幸福なのでは。

それとも、「老人」という鋳型に嵌まることで、彼らは労働を始めとする苦痛を免除されているから幸せなだけなのか。

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今自分の部屋に一人でいるのだが、どこかに帰りたいと思う。
いや、「還りたい」か。