東大卒無職が働かずに生きるブログ

東大卒が感じた社会の厳しさを綴るブログです。開発したサービス(フリマルっていいます)の話もちょくちょく

東京復帰

しばらく帰省したので、ブログの更新が途絶えてしまった。

 

私は帰省中、無職の特権を活かして、ワールドカップを観たり、地元の友達に会ったりしていた。そう、なんだかんだいって結構元気になってきたのである。

 

これからの方針についても、いろいろな考えがまとまった。

 

私は弱っていた時、とにかく平和な生活をしたいと感じていた。夕方の海を眺め、犬の散歩をし、気づけば一日が終わる。ジジイのような、隠者のような生活だ。

 

しかし、そういう生活はやはり本当のジジイになってからしても遅くはない。

今は、若い今は、社会というものに世間というものに精いっぱい体当たりしてみたい。

俗という泥にまみれながら、必ずしも正しくはない価値観に迎合しまくる。その中で行けるところまで行ってやるぜ、とこういう気持ちが芽生えてきた。

 

ということで、明日から大学院の教授に会ったり、インターンに申し込んだり、体を鍛えたり、株を買ったり、生きるために必要な勉強をしたり、とにかく命を燃やしていくぜ!!!!

 

(今のこの前向きな気持ちが、例えば双極性のような病理的なものから生じているのでないことをねがいつつ)

最終出社

会社は今日でほんとうの最後となった。

会社に行くと例によってしばらく待たされた後、会議室に通された。

部屋には合計四人しかいなかったが、それでもいきなり一分ほどの辞任式のようなものが執り行われたのは驚いた。いちいち形式にこだわるこの職場のこういうところが合わなかったんだよなあ、と思いつつも、ちょっと嬉しかったのか?正直自分でもよくわからん。その後、皆が働いている場所まで荷物を取りに行ったが、これが一番辛かった気がする。やはり同期と鉢合わせしたので、軽く挨拶のようなことをしたり、いつもは明るい感じの先輩的な人も、私との会話に困っている様子などが伝わってきてしんどかった。これで完全に退職となった。やめた瞬間は解放感を感じたり、現実感がなくなったり、、、自分でも自分の感情が良くわからない。

 

その後同期と飲みに行く約束が入っていたのだが、これも正直気が重かった。まあ行ってみると、仕事を辞めたことに関して色々話したり、あとはまあ恋愛関係の話題がでたりと普通に楽しかった。そういえば休職してから初めての酒だったな。

その帰り道に会社関係のライングループをほぼすべて抜けた。久々にグループをみてみると、私のほかにも抜けている人が一人いた。その人物がやめたとは言い切れないが、すごく真面目そうな青年だったのを覚えている。そして、すごく真面目そうだったのに意外とキスマークをつけているという疑惑がある青年だった。私とそこまで絡みがあったわけではないが。

 

正直まだ気持ちの整理がついていない。これまでのこと、これからのこと……。正直フリーランスのような形で生きていきたいという思いが強かったが、自分がある程度いい年齢になったときのことを想像すると、所属する組織が必要な感じもする。私は基本的に考えが煮え切らないのだが、今回もまた悩むことになるのだろう。

 

まあ、なるようにしかならないのであろう。

しかし、今でも辞めてよかったとは思う。同期は好きだが、やはり組織の不条理な仕組みに合わせるような働き方は、性に合わなかった。大きな組織は本当に合わないな、と思った。あるいは、自分の行動が自分のあずかり知らないところで決定されるような働き方にここまでの拒否反応がでるとは。自分のことを自分で決めるということが自分にとってここまで大事な事だったとは。

 

とにかく明後日いったん地元に帰るのだが、早く両親と相談したい気持ちでいっぱいだ。

 

 

触れ合い

今日もこれといって勉強はしていない。役所関係の手続きをやったほかは、ずっと彼女と会っていた。他愛もないことを話した。ここ数日、将来についての私の考えがぶれまくっているのを指摘される。それはもちろん自覚している。ただ、ぶれまくっているのを笑いあえるのが、なんというか幸せに感じた。ほかには、住宅街を散歩したり、公園であてもないことを話したり。

正直、楽しかった。これからの人生が、そういう他愛もないことの連続であればいいのに、とも思った。世間(世間といっても、あるいはそれは自分のなかに存在する観念に過ぎない)が納得するような生き方を、という強迫的な思いを全部吐き出して、ただ周りの景色の素朴な美しさを、周りの人々のありふれた温かさを感じて生きる。それでいいのではないか。

 

そして、それを実現するための最もはっきりとしたルートは、実家に帰って家業を継ぐ、といった形しか現状見当たらない。しかしそれには、親をはじめ彼女の理解も今一つ得られていない。なんだかんだ周囲も私が東大を出た、ということで「あるべき東大卒の姿」のようなものを私の背後に見てしまうのであろうか。

思うに、教育の成果とは、ある一定以上を超えると、ごく少数の人たち、あるいは本人のみにしか感じることができないような形で現れるのではないか。それはつまり、おおざっぱに言えば、感性の変化ということである。必ずしも進化ではない。ただ変化するだけだ。感性の変化により、時には被教育者が独自のアイデアをひらめいたり、人生を明るくするような歓びを見出すようになることもあるだろう。しかし、その逆もある。というかその逆の場合が多い。頭を使えば使うほど、考え方は周囲と乖離し、他人には理解できない苦しみを抱えることになる。あるいは、他人には戯言としか思えないような思想をもつこともあるだろう。自殺したり、やばい宗教にはまってしまう高学歴がたくさんいるだろう。私は彼らに同情するわけではないが、彼らのノリがわかる気がするのである。私は彼らを(というかこの世のほぼすべてを)「間違っている」とは思わない。ただ周囲と感性が違いすぎて、多数派から見れば狂人に映るというそれだけの話であろう。

 

なんかとりとめのないことを書いてしまったが、やはり勉強しすぎるとむしろ不幸が近づいてくるかもよ、というそれだけの話である。(うろ覚えだが、パスカル(多分)の父親は、息子の数学のセンスを見抜くと、むしろ数学を子供から遠ざけたそうである。パスカルが数学の面白さを知り、それにのめりこむことを危惧したのだとか)

 

 

 

 

無職におすすめの息抜き

無職をやっているとなんとなくお金を使うことに罪悪感がある。なにせ自分では金を稼いでいないのだ。金がなくなっていくという感覚は深刻な不安に直結する。すると必然金がかかる遊びを敬遠するようになる。

もともと金がかかる趣味を持たない私だが、そんな私がお勧めしたい無職の為のスポットは、ずばり、図書館である。とりわけ国会図書館はお勧めだ。なにせ日本で出版されている本のほとんどを無料で閲覧できるのだ(貸し出しは不可)。もちろん漫画も読み放題である。

最近勉強に対して息が詰まる感じがしてきたので、今日は息抜きに国会図書館に行ってきた。福本伸行の『カイジ』シリーズや、そこからのスピンオフである『ハンチョウ』、押見修三の『血の轍』などを読んだ。正直『ハンチョウ』はギャグのクオリティも高く、引き延ばしがあまりにもひどすぎる本家を軽く超えている。『カイジ』も単行本で読むと普通に面白いのだが、展開が遅すぎ、密度が低すぎるので金を出して単行本を買おうという気にはならない。全盛期の福本作品は本当に面白かっただけに、残念でならない。中一の夏、はじめて『カイジ』の限定じゃんけんを読んだとき、あまりの面白さに手が震えたのを思い出す。勝手な想像だが、作者も年を取ってくると、人間的にまろやかになってきて、キリキリするような勝負を描写するのはしんどいのではないだろうか。勝手な想像だが。

 

国会図書館ではでPC端末から読みたい本を注文し、それを係員が持ってきてくれるまで、少し時間がかかるのだが、逆に言えばこれはその間に勉強ができるというメリットでもある。今日は漫画の合間に勉強したが、これが意外に捗った。今日はラプラス変換をやり、それが微分方程式を解くときなどに役立つのを学んだ。とりあえず、フーリエ変換ラプラス変換とやり、ちょうど教科書が一冊終わったのでこの辺で勉強する内容を変えていきたい。

 

それと今日も生き方について考えた。自分の感情を分析するときにも、常識というバイアスによって本当の気持ちに気づけないことがある。今日は、客観的に主観を分析しようと努めた結果、自分は人とかかわるのが嫌なのではなく、あれこれ命令されるようなかかわり方が嫌なだけだと気づいた。こうして言語化してみると、いかにも社会不適合者という感じがする。しかし、それ故に今まではっきりと自覚できなかったのだ。すごく月並みに言えば、使われたくない、とそういうことだ。

 

 

 

好きだった映画

今日は水泳でもして体力を取り戻そうと考えていたが、昨日の夜風邪気味だったので大事をとって安静にしていた。基本ずっと家にこもり、勉強をしたり家事をしたり。それからAmazonで買い物(服とRick and MortyのDVD)をして、プライムビデオでスラムドッグ・ミリオネアを観た。テレビ番組のクイズミリオネア(日本版ではみのもんたが司会してたあれだ)にスラム育ちの青年が挑戦し、壮絶な人生の記憶をヒントにクイズをクリアしていくという内容だ。

さすがアカデミー賞をとっただけあって、画面から伝わる緊迫感がすごい。映画は正直よくわからないが、名作であることは間違いなさそうだ。

 

大学一年生の時、私はよく映画を観た。それは、映画が好きだからではなく、大学生だから教養をつけるため、あるいは人間としての魅力を増すためにはたくさん映画を観なくてはならないというような強迫観念からだった。大学入学後すぐ読んだ、「大学生のうちにやっておかなければならない〇〇個のこと」みたいな本にそう書いてあったのだと思う。

 

当時観た映画の中では、『桐島、部活辞めるってよ』が最もお気に入りだった。というのも、有名な評論家がこの映画を批評しているのを観て、感心したからだ。

 

曰く、この映画は不条理演劇として有名なベケットの『ゴドーを待ちながら』を手本にしているということだ。『ゴドー』では、二人の浮浪者が何者かもわからないゴドーをただ待っているというだけで、筋の通ったストーリーもない。それは、神を失って不条理を生きるしかない人間社会への強烈な皮肉である。つまり、ゴドー=ゴッドであると。

一方の『桐島、部活辞めるってよ』においてもスクールカーストという社会秩序の中心にいた桐島を喪失した学校社会の動揺を描くという点で『ゴドー』構図が共通している。つまり、桐島=キリストであるとかなんとか。

 

両方の作品で、ゴドーも桐島も最後までその姿を現さないところに、なぜだか凄く惹かれ、駒場では不条理演劇を扱った講義をとったりした。(『桐島』に触発されてその講義をとった者は、ほかにもいた)

たしか、その講義を履修した人の中に、「ごどう」という名前の人がいたが、全く出席しなかったので、教授が「今日も、ごどうさんを待ちながら講義を始めていきましょうか」というギャグをいっていた気もする。講義はかなり面白かった。

 

『桐島』の吉田大八監督の作品はだいたい観た。中でも『パーマネント野ばら』を男性による女性の抑圧を描いた作品として捉え、当時気持ち悪いフェミニストだった自分はますますキモイ感じになっていたことを思い出す。

 

こうして思い出すと、当時映画にはまっていたことは、実はいい思い出なのかもしれない。今、『桐島』と『ゴドー』の話を聞いたとしても、要するにパクリか劣化コピーってことじゃん!という感想しか持たないかもしれない。

 

変な思想にかぶれるとか、気持ち悪い評論家気どりみたいにならなければ、少なくとも映画をみることの害はないのである。

 

 

無職にとって重要な事

無職にとってかなり重要な事、それは午前中から活動することである。最近は早朝覚醒もめっきり減り、まとまった睡眠がとれるようになってきた。その反面、惰眠をむさぼっているという事実も否定しがたい。とにかく午前中から勉学に励むべし!

 

ちなみに今日は比較的スムーズに一日を始めることに成功し、出願の手続きのほか、まとまった勉強時間を確保することができた。フーリエ級数展開複素数の指数関数で書く、というようなことを主にやっていた。

淡々と作業に没頭していたので、必然てきに書くことがあまりない。しいて言えば、どうやら風邪をひいてしまったようだ。鼻水がとまらない。少しぼーっとしてきた。そんなに重症ではなさそうだが。

 

さっきまで、英語の勉強を兼ねて、Amazonプライム911事件のドキュメンタリーを観ていた。これが起きた当時、私は小学生になったかどうか、くらいの年齢だった。何が起きているのかはよくわからなかったが、なにやら世界中で凄いことが起きている、そんな空気は感じていた。あとは一緒にテレビを観ていた母がめちゃくちゃ衝撃を受けていたのをほんのりと覚えている。

事件の影響で、世界中の株価が暴落し、航空会社が経営破綻し、ブッシュ政権の支持率が爆上がりし、アラブ系のアメリカ人がヘイトクライムを受けた。そして遺族の悲しみ。ほんと世の中何が起こるかわからない。

働いていたころは、自分の会社が入っているビルが爆破されることを毎分祈っていたが、この惨状を見た後では、そのような悪質な願いはとても持てそうにない。

 

あとは、今日は最後の給与明細が送られてきた。住宅手当が過去の分も含めて支給されていて、一度も出勤していない6月分が、皮肉にも過去最高の金額だった。この組織では、すべてが、決まりに従って淡々と進行していく。私にとって都合がいいことも、悪いことも。官僚的であることと、合理的・効率的であることは全くイコールではない。私はよく会社の人間たちがアイヒマンのようだと感じていた。組織の機能の一部になった人間たち。

 

あと今日起きたことといえば、ビットコインが結構下がっていた。ビットフライヤーに業務改善命令が出て、新規顧客の受け入れを停止したことが原因であろう。私は730000円のときに0.05ほど買っているので、1500円うらい損していることになる。まあ、このまま下がっていったとしても大した損にはならないのであるが、できれば上がってほしいものである。

 

 

時々感じるエロさについて

今日は彼女とファミレスで勉強した……といいたいところだが、実際はほとんど駄弁って終わってしまった。その中で、話し相手が他人とヤッた話を聞くのにエロスを感じるという話題が出た。はじめ彼女はこれをいわゆるNTRだと称していた。しかし、これは単純にNTRと同一視することはできまい。私はこの現象は、他人が食べているご飯はなんかおいしそうに見える、という事象と近いと考えている。または、隣の芝は青い、というか。「人間の欲望は他者の欲望である」と唱えたおじさんが昔いたようだが、つまりそういうことであろう。我々は他人が欲望している対象に魅力を感じてしまうのであろう。服の流行などを考えるとき、この考え方は説得力をもつ。皆が来ているから、あのファッションはカッコよく見える、てな具合に。そんなこんなで、他人の性欲の対象となっているその人に、自分自身も魅力を感じる、ということは結構あるのではないか。

偏見かもしれないが、そうした傾向は女のほうが強い気もする。よく恋愛上級者なる人が「女はすでにモテている男に惹かれる」などと言っているのを聞いたことがあるのではないだろうか。

 

他にも、私の友人の恋愛話(というか基本性的な話?)や、私の恥にまみれた過去についての話がでた。こじらせまくっていたころ、文芸サークルに属していた私は、女から遊びの誘いが来たというそれだけのことを、前後のあらましを含めて文章化し、サークルの会誌に投稿していたのである。その字数は一万字程度にも及ぶ。別に今でも女慣れしているということはないが、やはり昔の自分の行動が半端なく気持ち悪かった。

 

しかし、昔の話をしていると、嫌な思いをさせてしまったことに関する話題がでて、彼女の機嫌を損ねてしまうことがしばしばある。男からすればすでに終わったことに対して何回も怒られるのは結構厄介なのだが、多分本人もそうなりたくてそうなっている訳ではないのだろう。気づけばこちらもしょうもない理屈をいったりしていて、話が泥沼にはいりそうになったりする。

こうかくと、何か喧嘩でもしたみたいだが、別にそんなこともない。ちょいちょい小さなトラブルもどきを抱えつつも、そのことすら含めて楽しんでいければいいのだ。

 

さて、肝心の勉強はというと、英語のディクテーションをやってみたり、一、二問数学をやってみたりしたが、実質何もやっていないに等しい。あとは、フーリエ解析の参考書を購入した。